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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)6060号 判決 1981年2月24日

原告

松山萬里子

松山伸一

松山由紀子

右原告ら訴訟代理人

土屋公献

外二名

被告

白倉範幸

右訴訟代理人

飯田隆

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1記載の事実(当事者の地位)中、被告が内科医院を経営する医師であることは当事者間に争いがなく、原告萬里子本人尋問の結果によれば、各原告と久の身分関係は原告主張のとおりであると認めることができる。

二請求原因2記載の事実(久の死亡に至る経過)中、久が昭和五一年三月三一日菊池の紹介で被告の第一回目の診察を受け、同年四月六日第二回目の診察を受けたこと、久が同月一五日入院中の中野病院において死亡したことは当事者間に争いはない。

右争いのない事実並びに<証拠>によれば、久の死亡に至る経過を次のとおり認めることができる。

1  久は、昭和五一年三月当時三菱商事株式会社に勤務し、燃料本部長補佐の地位にあつたが、同月二五日ゴルフに出かけて帰宅したころから風邪をひいたような状態で非常に疲れているようであつた。その後、久は同月三一日被告医院で診察を受けたが、同年四月一日夕方ころ菊池が被告医院からの薬を持つて訪れた際、萬里子の問に対して菊池は久に入院の必要があるようなことは一切語らず、また久もそのようなことは言わなかつた。

2  久は、依然として体調が思わしくなく、同月二日から五日まで会社を休み、自宅で静養していたが、顔色が悪く、その間の同月三日昼過ぎから翌四日の昼過ぎまでは被告の投与した睡眠薬を服用したため眠り続けていた。

3  久は、同月六日は会社に出かけたものの、翌七日は昼ごろ帰宅した。同日夕方ころ再び菊池が被告医院の薬を持つて訪れたが、その際菊池は「この薬を飲めば大丈夫だ。」「入院の必要はない。」旨を被告の言動として伝えた。

4  その後も久は体調は改善せずかえつて病状は悪化するようであり、遂に同月一〇日に至り久が息苦しいと訴えたので、萬里子らは久を従前久が入院したことのある中野病院へ入院させることを決意したが、当日(一〇日)が土曜日であつたため月曜日まで待つこととした。

5  同月一二日、久は中野病院に入院したが、その時には既に重篤な状態に陥つており、その後の治療も効果なく、同月一五日同病院において死亡した。

三久に対する被告の診療の内容について

<証拠>によれば、久に対する被告の診療内容は次のとおりであると認めることができる。

1  昭和五一年三月三一日第一回診察時

久は菊池の紹介で被告医院を訪れた。久の主訴は息切れと数日前から喀痰があるということであり、既往症については青年時から肺結核を患い、肺結核及び糖尿病で入院した経験がある旨を申し述べた。被告は久に対し胸部レントゲン撮影、血沈検査を行い、レントゲン写真には両側肺尖部に肺結核を示す(但しそれが活動性であるか否かは別として)空洞が多数存在し、右の下肺野にび慢性の陰影の存在、両側下肺野に肋膜のゆ着のあること、右中肺野に繊維性肥厚のあること(このレントゲン写真の内容は、既往の肺結核が重症であつたことを示しているもの。)がそれぞれ現われていたが、血沈検査の結果は正常値(二時間値一五ミリメートル)であつた。胸部聴診によれば、右下肺野に水泡音が聴取できた。熱は正常で、他に特に異常な自覚的、他覚的所見はなかつた。

以上の所見をもとに、被告は、まずレントゲン写真からみれば、(一)肺炎、(二)気管支拡張症、(三)慢性気管支炎などが懸念されるが、通常肺炎の場合には、息切れ、呼吸困難が強く現われ、胸痛を生じ、発熱し、血沈異常が現われるはずであるが、久には右の症状がなかつたため、未だ肺炎とは考えにくく、結核性病巣のあることから、これに基く気管支拡張症の可能性が最も大きいものと考えた。そして、被告は、久の結核病巣は古い病巣でもあり、過去の診療記録との対比を行わなければ確実な診断はつかないこと、及び気管支拡張症であるとしてもそこから肺炎への移行の可能性は少なくないことを考え合せ、久に対し、久が従前入院加療を受けていた中野病院へ行つて診察を受け、治療を受けるべきことを指示した。しかし、右診療に至るまでの経過的措置として、自宅で静養すべきこと、飲酒を慎むようにすることを指示すると同時に、久の症状に対応した投薬措置をとつた。被告のとつた処置の内容は、静脈注射としてコメタミン五〇(ビタミンB1系)を栄養補給のため行つた他、投薬としてはシンクル(セファロスポリン系抗生物質)一日八カプセル、ブルーフェン(消炎剤)一日六錠、イソパール(気管支拡張、去痰剤)一日三錠をそれぞれ五日分処方し、特にシンクルについては肺炎に対する予防的措置を強めるため、通常量の倍量を投与した。

なお、被告は久に対し痰塗抹培養検査のため痰(早朝のもの)を持参することを指示し、翌朝菊池によつて届けられたが、その検査では結核菌は検出されていない(塗抹検査の結果は、同年四月二日ころに判明している。)。

2  同月四月一日

菊池が被告医院を訪れ、久が不眠の症状に悩んでいると報告し、投薬を希望しているということから、被告は久に対し睡眠(誘導)剤ダルメート一回分一錠を投薬(一〇回分)した。

3  同月六日

再度久が菊池とともに被告医院を訪れた。診察の結果、レントゲン所見、肺水泡音には初診時と変化なく、喘鳴が聞かれたが、血沈検査結果、血圧、熱、心電図には異常はなかつた。診断所見も初診時と同様であり、被告は久に対し再度中野病院への転院を勧告するとともに、前同様シンクル一日八カプセル、イソパール一日四錠(各六日分)の投薬を行つた。

4  同月七日

菊池からの連絡により、被告は久に対し、睡眠(誘導)剤ダルメート一同分二錠、精神安定剤ホリゾン一回分一錠の各一〇回分の他、去痰剤フステンワッサー(水薬)を投薬した。

四被告の診察・処置の適否について

1  病状判断の誤りの有無について

被告の久に対する診断は、カルテ(乙第一号証)の記載上「肺結核症、気管支肺炎の疑い」とされているところ、被告本人尋問(第一回)の結果によれば、右の表現は投薬についての保険適用上の便宜のためのものであると認められるが、実際上も被告は前認定のとおり右カルテの記載と基本的には同一の視点に立つた肺結核に基く気管支拡張症との印象をもつており、また肺炎への移行の危険性も考慮に入れ、その見地から投薬措置を行つていたものである。この被告の診断、投薬内容は、一応肺炎の危険をも勘案してのものであるということができ、また鑑定の結果によつても、被告の診察時に既に肺炎に罹患していたとは考えにくいこと及び被告の右診断内容・投薬内容には問題とすべき点のないことが認められる。

2  睡眠薬投与の誤りの有無について

前認定のとおり、被告は久に対しダルメート(正確には睡眠薬でなく、自然の睡眠への導入をはかる睡眠誘導剤)及びホリゾン(精神安定剤)を投与しているが、<証拠>によれば、被告の一回分当りの投与量は適正投与量であることを認めることができ、前認定のとおり久が四月三日ころ長時間にわたつて睡眠したとの事実は認められるものの、<書証>並びに本件鑑定の結果によれば、右薬剤の常用量を服用した場合には呼吸抑制などの異常効果や長時間睡眠を惹起することは考えにくいものと認められ、そうであれば、被告の睡眠薬の投与により久の病状が悪化したものと認めることはできない。

3  糖尿病への配慮の欠如の有無について

前認定のとおり、久が糖尿病の病歴を有するものであることは被告にも明らかにされていたのであるが、被告において久の診察時点で糖尿病を発病しているか否かについて特に検査を行つた事実は認められない。一方、本件鑑定の結果によれば、糖尿病は結核その他の感染症について有力な促進因子となること、従つてこれに対する配慮が当然なされるべきことを認めることができる。

しかし、被告本人尋問(第一回)の結果によると、糖尿病の診断は準備された検査基準、方法に基づいてなされるべきものであつて、初診日には施行できないものであること、糖尿病の症状について久から全く主訴がなかつたこと、また被告は前認定のとおり久に対して従前入院したことのある中野病院への転院を勧告していたことが認められ、他方において、久が糖尿病に罹病していたと認めるに足りる証拠はないので、これらのことを考え合せると、糖尿病への配慮を欠いたことと久の病状悪化あるいは死亡との間に因果関係が存在したと認めることはできない。

4  転院措置の懈怠の有無について

右については、前認定のとおり、被告が久に対し中野病院へ転院するよう指示又は勧告をしていたものと認めることができる。ところで、この点について、原告らは、被告が右の指示を行つていないと主張し、その証左として、久がそのような言動をしていなかつたこと、仲介に立つた菊池もそのようなことを告げず、かえつて被告が薬を飲んでいれば大丈夫である旨の発言をしていたとの話をしたことを指摘し、前認定のとおり、久が入院・転院の必要性につき語ることなく、また菊池が原告萬理子等に対し右のように告げていたことが認められるものの、証人菊池の証言によれば、菊池は久から家族に対しては被告から中野病院へ行くべき旨指示されたことは伝えないで安心させる様に話してくれと依頼されていたことを認めることができる。原告らは右の菊池の証言が虚偽であると論難するが、これが虚偽であると認めるに足りる証拠はない。以上に加えて、前認定のように重症の肺結核や糖尿病を患つたことがある久の病状について正確な判断を行うためには過去の入院診療の経過等を参照することが必要であることを考えれば、被告がその旨の指示を行つたと考えるのが自然である。なお、右の状況の下で、被告が久に対して数日分の投薬をしたことについて疑義がないわけではない(被告はそれを病院のベッド待ちのため、あるいは薬剤の包装上の都合のためと説明している。)けれども、その故に被告が久に対し中野病院へ行くべき旨の指示をしたとの認定を覆すに足りないというべきである。

5  以上1ないし4のとおり、原告らが被告の過失行為として主張する各点は、いずれも認めることができず、他に被告に注意義務違反の過失があつたことを認めるに足りる証拠はない。

五結論<省略>

(山田二郎 久保内卓亞 内田龍)

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